現在署名活動を展開中
今後の伊集院町や鹿児島県に対しての妙円寺の対応
一、曹洞宗妙円寺は、今後 法的手段にて妙円寺破壊の後 徳重神社(神道派)が無理矢理ご神体とした島津義弘公が法智山妙円寺に対し献上した義弘公自身の仏像の返還を、徳重神社及び伊集院町、鹿児島県に対して求めて参ります。
一、児童に対し物事を教える立場の伊集院町教育委員会が、神社と寺院の区別もつかぬまま、教科書にまで間違った歴史認識を強制、教育してきたという全国に例を見ない町
日置市伊集院町。
この滑稽な伊集院町教育委員会のことを今後の布石として書き記しておきます。
一、日置市伊集院支所総務課は、本来この問題を統括するにあたり最も重要な部署である…
妙 円 寺 詣 り の 現 状※編集中
廃仏毀釈という愚行がなければ、日本でも有数の大寺院群を誇った鹿児島にどれだけの門前町が栄え、商業や観光が発展していたでしょうか。 @現行の妙円寺詣りとその矛盾点 A行事名を変えた場合のその矛盾点 B妙円寺詣りに関する報道とマスメディアに今後望むもの ------------日置市役所伊集院町役場、日置市商工会・伊集院町商工会、および、日置市教育委員会(伊集院町教育委員会は、その寺号を使うのみならず、50年もの間、明治に妙円寺跡に建てられた““徳重神社”を“妙円寺”のごとく、 ……もし妙円寺詣りを歴史的伝統行事とするならば、“薩摩には廃仏毀釈という歴史があり、その関係で、妙円寺はこちらの方に移転復興しております、妙円寺詣りの日には是非こちらのほうにもお参りください”とするのあたりまえの説明であるかと思うわけであります…… ……こと、廃仏毀釈と妙円寺、徳重神社の関係に触れると、口をつぐんでしまう郷土史の先生もいらっしゃるようでありますが…… ……明治以降の歴史に限り語っておられればよろしいかと…… …郷中教育とは禅の影響を多分に受け… …薩摩が全国に誇れるであろう石屋禅師が、その功績のわりに、このような知名度に甘んじているのも…… …徳重神社に参拝する妙円寺詣りを正当化するため…この復興した妙円寺やその禅のルーツをなきものにしてきた伊集院町にも多大な… 最後に、島津忠良(日新)公はこのような歌を残しております。 “仏神 他にましまさず 人よりも心に恥ぢよ 天地よく知る” と。 (199○年 妙円寺本堂にて) |
伊集院町(日置市)役所、教育委員会、商工会の妙円寺詣りに関する歴史認識 ( 資料 )現行の妙円寺詣りとは妙円寺が現存しながら、徳重神社参拝という祭事(神事)であるという奇妙な事実。 島津義弘維新公自身は、法智山妙円寺は知っていても。明治になって建てられた、徳重神社のことは全く知らないということ。 廃仏毀釈が徹底的に行われた、鹿児島県において、その繁栄を極めた曹洞宗寺院は焼かれ、玉龍山福昌寺、松原山南林寺、慈眼寺(石屋派)皇徳寺(曹洞宗本山直末)は、松原町、南林寺町、鹿児島玉龍高等学校、皇徳寺台など地名や校名として名を残し、一部の場所では、その後、神社が建てられている場所もあるが、 それでも、 鶴嶺神社を福昌寺と呼ぶ者はいない。 竹田神社を日新寺と呼ぶ者もいない。 松原神社を南林寺と呼ぶ者もいない。 そのような愚か者はいないのである。 それは薩摩隼人の遠慮と良識と教養である。 その意も込めて島津家第三十代当主、公爵島津忠重氏は あえて、妙円寺境内に、石屋禅師記念碑題字を書かれた。 ところがその後も日置市伊集院町役場だけは… 復興した妙円寺が在るにもかかわらず、 長年にわたり徳重神社を妙円寺である!と叫んできたわけです。 この行事に関しての質問のメール、感想のメール、誠にありがとうございます。 皆様のメールは今後このカテゴリーが完成次第、掲載させていただくことがあります。その際には、プライバシーにはじゅうぶん配慮いたします。… …まず、読んでくださる皆様に、特に鹿児島県以外の方は驚かれるかもしれませんので、最初にお断りしておきますが、これは明治初期の仏教弾圧(廃仏毀釈)中の記事ではございません。 …2008年、平成20年現在。書かれている記事であります。… 妙円寺詣りとは、元来… メモ …… 現在妙円寺詣りは、この寺の寺号を使うにもかかわらず、徳重神社に参ることになっております。この妙円寺は、日置市の広報に紹介されるどころかまるで廃寺になったままであるかのような扱いであります… ……当日は、歴史をよくご存知の方々は、当寺に参拝されるようでありますが、日置市伊集院町という自治体レベルが、妙円寺 ( 現徳重神社)などと表現してきたのでありますから ( 広報ひおき平成19年……画像参照 ) …篤姫にちなんだこの日置市のツアー企画をごらんください… …現在の日置市の史跡に関する紹介は……日置市商工会ホームページ、伊集院町商工会のホームページをご覧になれば、一目瞭然かと… 石屋禅師や深固院祭り、は紹介しても、当寺は紹介すらされておらずそこにある画像は徳重神社であります… 石屋禅師の息のかかった深固院や小松帯刀由緒の圓林寺が明治に神道派により建てられた徳重神社の末寺とでも言いたいのでありましょうか…… …このあきれた認識は大変な誤解を招くとともに、曹洞宗へのいや、仏教会全体への……(島津氏と日置?… …HPで当寺の存在を初めて知った方は、もう一度これらの日置市伊集院町発信の記事を読んでみてください。 …復興した妙円寺を頭に入れながらよくご覧ください…このような無礼極まりない伊集院町という… …これらの日置市伊集院町自治体の広報活動や妙円寺詣りの現状を見ると、まるでこの町は明治政府の負の…“廃仏毀釈 ”を肯定でもしているかのような誤解を受けかねないのです… ………近年では鹿児島県の公式HPでさえ、“隣に妙円寺が復興されたと記されているわけであります… …妙円寺を蔑ろにすることは、南北朝の和睦に功を成し、薩摩の武士達に教えを説いた石屋禅師の遺徳を無きものとすることであり、あくまで仏法僧の三宝と石屋禅師の教えに帰依し妙円寺を菩提寺と定めた、島津義弘公の遺志を蔑ろにすることではないでしょうか。 …伊集院町は、妙円寺詣りと称して、徳重神社に参るという理不尽なこの行事の理論付けのために、全国に名を知らしめた高僧石屋禅師と、島津義弘公本人の遺志をも100年来蔑ろにしてきたのです。 ……伊集院町に関して言えば廃仏毀釈はいまだに続いているのではないか、と… ………果たして、鹿児島の郷土史家、教育者、鹿児島のマスメディアはどのような良識を持って後世に歴史を伝えていこうと… …あの明治のファナティックな神道派による寺こわしの中で、なぜ神仏分離に矛盾する行為、つまり… …妙円寺を焼き払った後、島津義弘公の仏像を欲しがり、奪い、無理矢理、御神体としたのでしょうか? …私には解せません… …ほかに迷惑なものとしては…当寺へお参りに来た方が伊集院駅よりタクシー乗車し、「妙円寺さんまで」と言うと、徳重神社に連れて行かれた……など、 わが妙円寺、曹洞禅宗の布教活動にも長年にわたり多大な悪影響をあたえております。 …これらの要因も結局は…前記したとおり日置市伊集院町…… ……日置市伊集院町の理屈に当てはめると、曹洞宗(妙円寺)と神道(徳重神社)は同じであり、例えば能登より、横浜に移った總持寺は總持寺ではないと、解釈してとれるのです。 ……日置市伊集院町の歴史記事に関しても、たとえ妙円寺、天昌寺、梅天寺、深固院などの由来を取って付けても、……それらの寺院は石屋禅師〜妙円寺〜福昌寺の流れをくむ妙円寺の孫寺であり…… …けっして徳重神社が妙円寺になることはなく…矛盾と帳尻合わせの域を越えていないで… …鹿児島では特に誤解されておりますので、お断りしておきますが、島津義弘公菩提寺の“菩提寺”というのは“寺院”のことでありますし、 島津(義弘)維新公の“維新”とは、“入道(仏道)名”であります。 神仏分離令を拡大解釈し、廃仏の象徴となっている鹿児島県が、神仏を分離するどころか、…… 現状の行い方ではもはや、歴史的意味はなく……しかしこの祭りの日を楽しみにしていらっしゃる子供さんもおられるでしょうし、徳重神社参拝の思い出を持っていらっしゃる方もありますでしょうから、 ……むしろ、いつまでも本来の“妙円寺詣り”の名に頼らず“義弘祭”なり、“徳重神社参り”などと名称変更されてはいかがかと強く望むので… 妙円寺詣りの起源がはっきりせず、明治になってさらに栄えた行事であるならば、それは明治初期以降に、その時代背景や…神道派により、鎧を身につけ、強兵教育的意味合いを持った、明治以降の行事としてアピールしていけばよいのです。 ただし、妙円寺の名は使わずに… …行政ともあろうものがこのようなデリケートな史実のある薩摩の歴史を…ただ一つの宗教施設と身勝手な歴史認識によって、かたより…教育現場においても子供達に60年もの間嘘を教えてまいりました。… 歴代伊集院町長は、妙円寺詣り当日、学校の授業を半日で終わらせ、何十年も、一宗教施設に参らせてきた事実もあります。 歴史と教育の町… 薩摩の歴史を最も軽視しているのは… …それでも、妙円寺の名を使い、徳重神社に参る。妙円寺は蔑ろにするというこの本来の妙円寺詣りとはかけ離れた、日置市伊集院町主催のこの行事が続いて行く限り我々は戦っていかなければなりません… (memo 日置市web date & 過去広報など資料整理→支持) |
妙 円 寺 詣 り 関 連 記 事※現在編集中です。しばらくお待ちください。 妙円寺の史蹟 大塚正一 「明くれど、とざす雲暗く」 昔忘れぬ薩摩隼人の健児達が甲冑姿勇ましく旧暦九月十四日の月を踏んで武神を追慕する徳重神社参詣の日は来た。 むしろ妙円寺詣りとして名高い………何故に妙円寺詣りというのか、 また未だ徳重神社と妙円寺とを一緒であろうかのように考えている人がある!!! 同神社例日に直面して妙円寺の史蹟および伝説の概要を述べて未知者の参考にしたい。 法智山妙円寺は今を去る五百年前明徳元年、石屋眞梁禅師の開山で薩隅日三州初の曹洞禅宗の始祖で、禅師もまた世に希有の高僧なることは世人の知るところである。 石屋禅師は伊集院長門守忠國公の第十一男で六歳にして広済寺(今の伊集院高校上)に入って童役を執り十六歳にして京都南禅寺の十九世蒙山智明禅師を禮して出家し後ち東陵永(興)に謁東陵永(興)其の骨相清奇なるのを喜び石屋の号を授けた。 次いで中巖月、通幻禅師等の門下を歴即し苦辛をなめ十八才より中国に入り四百餘州を遍歴し、難行苦行二十年彼の地の僧俗活き達磨再来す、と賛歎されるに至り、世に屈指の名僧として名高いのである。 そして、妙円寺は禅師遍歴中、長州の太守大内公の息女法智妙円大姉を済度させられその法縁によって、禅師の高徳なるに感じ禅師の出身地である伊集院(現在の徳重神社社領)領地を買い取り、七堂大伽藍を建て、石屋禅師に献し、禅師もまた住山したことにより法智山妙円寺と呼ぶに至る。 その後慶長九年、島津義弘公厚く石屋禅師の教法に帰依し、妙円寺施入高を五百石に増加し明治維新に及んだが、明治二年の廃佛の難に遭い、当寺も亦廃滅となったが、明治十三年大本山六十一世久我環溪禅師隅々九州御親化の際斯る名刹を廃滅せしむのをま甚た遺憾として、寺號復立を勧誘(徳重神社西方約一丁の処)に再建立、現住職伊藤石龍師住山と共に名僧の教えをそのまま布教している。 徳重神社は、妙円寺を廃滅するに及び島津義弘公の菩提寺たるを以って、神社に更正せられ、明治二年社格を村社とし、同六年八月伊集院郷社に改定せられ大正七年義弘公三百年祭を営む際に、官幤社に昇格を上申したるも叶わず県社に昇格、現在に至るもので、以上の如く徳重神社と妙円寺は別個のものである。 (昭和初期の妙円寺詣りに関する新聞記事より) |
妙 円 寺 詣 り の 由 来※現在編集中です。しばらくお待ちください。(この行事に関しましては、 あらゆる資料や有識者の残した文献等を交えながら、徐々に更新していきたいと思っております。 偏りのない歴史を伝えていきたいと思っておりますので、良識のある一般の皆様と、宗派を超えた、仏教関係者の方々の、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。 |
妙 円 寺 と 徳 重 神 社 と の 違 い当山は、薩摩が生んだ天下の高僧『石屋禅師』に依り、長州大守、大内義弘公の亡息女「法智妙円大姉」の菩提寺として開創。後年、島津義弘公が自ら帰依せし由緒の寺院です。 義弘公の戒名は、「妙円寺殿松齢自貞庵主」です。 位牌は、本堂内に安置されています。 ※明治二年の神道派の暴動にあい、(廃仏毀釈‥寺壊し) 室町時代に建立された、さしもの大妙円寺も焼き払われ、 その跡に徳重神社が明治四年に新しく建てられましたが、義弘自身は この神社は全く存知しない神社であり、あくまでも本人は仏法僧の三宝に帰依し、この妙円寺を菩提寺としたのであります。 当寺は、明治九年に七年間の仏教弾圧が解かれたので、再び此の地に明治十三年に再興され、昭和四十八年の、開山石屋禅師の五百五十回忌に因み、本堂を改築し、現在六百年の法燈に輝いております。 |
| 妙 円 寺 |
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| 徳 重 神 社 |
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| ※「妙円寺詣り」は参拝する以上、義弘公本人が決めた此の曹洞宗妙円寺に詣るべきか、本人の知らない宗旨の神道徳重神社に詣るべきか、あるいは両方に詣るのが妥当か、英知ある諸氏の判断におまかせします。 合 掌 |